思い出


    9歳のわたしと念願のシェルティ、ペック

犬を飼って欲しい!!
と両親に頼み込んで3年、念願かなって小学三年生のときに迎えたのがペックでした。
それが、長くに渡って愛する事になるシェルティとの出会いでした。
鍵っ子の私の一番の家族。嬉しくてかわいくてたまりませんでした。
しかし、彼女は少々オキチちゃんで、ずいぶん苦労しました。
走り出したら止まらない、吠え出しても止まらない。
けれど、ペックの血統は名犬のダブル孫らしいわよと母から聞き、買ってきてくれた
愛犬の友を見てそのショードックに一目ぼれ。
初めてのショー見学は忘れもしない川崎競馬場でした。
初めて一人で電車に乗って、知らない方たちに出会い緊張したのを覚えています。
そこで子供相手にとても親切にしてくださったコリークラブの方に
訓練会の事を教えていただき、その後ペックと毎週自転車で40分の道のりを通いました。
その甲斐あって、時間がものすごくかかったけれど無事CDを獲得、年末の訓練競技会にも出場しました。

そこでのご縁で、4才でペックは5頭のママになり(その血は未だ続いているようです)
新たに二頭目のシェルティを迎えることになりました。
ターニャと名付けたその子は利口で美しい子でした。
両親は勉強もしないで犬ばかりの私に協力してくれるわけもなく
一人でターニャを連れて電車でコリークラブのショーにも出しに行きました。
何頭かの中から一席になってそれだけで大満足でした。
ショー用の手入れの仕方も知らず、マナーも
『ただ走らなければ(ギャロップしなければ)良い』と思っていました。
今こうしてジャムをショーに出すようになって
自分がショーに出した経験があるなどといっていたことが恥ずかしいです。
結局ン年ごしのウイナーはジャムがとってくれましたが念願の賞でしたので本当に嬉しかったです。

長い期間シェルティやドッグショーに憧れていた時間が長かった分、今こうしてシェルティに
囲まれて、ショーチャレンジでき、繁殖計画を立てたりできるのが夢のようです・・・


中二のときコリークラブのショーでターニャと(約20年前(゚▽゚;))

ターニャの子供を残せていたら、きっとその血液は絶やす事がなかったでしょう。
彼女は母親がアメリカ生まれで、とても受胎しづらい系統(日本の気候に合わなかったらしい)
だといわれていたので何度も交配しましたが一度も子供に恵まれることはありませんでした。

その後、わんこは老齢期に入ってショーとも無縁に過ごしてきましたが
私に転機があり、夢だった北海道の牧場で働くことが決まり、一緒にペックとターニャを連れて行きました。
シェルティに生まれたんだもの、一度はヒツジを追わせてあげたいという夢もかないました。
ペックがもっと若い頃に一緒にいけたらよかったな・・・
それでも一年間め一杯田舎暮らしをエンジョイしてくれました。
二人で野良猫の赤ちゃんを育てたりもしていました。




ペックの最後は茅ヶ崎に戻ってから、私が出張中のできごとでした。
16歳だった彼女は、すでに耳も目もダメで、入退院を繰り返していましたが
その週は安定していたのに・・・
眠るように天使になったそうです。

ターニャはその後を追うように、翌年の5月に亡くなりました。
子宮蓄膿症の手術をして、ゴールデンウィークなので術後すぐに無理矢理帰され
感染症を起こしてしまいました。
最後はとても苦しそうだったのが未だに心残りです。11歳の若さでした。

医者はあとから謝っていましたが・・・帰ってくるはずのない
ターニャの亡骸をさすっているのが精一杯でした。
もうこんな思いはしたくない。犬は当分飼えないと思い、4年は寂しい思いをしました。
その間結婚をし、また一戸建てに住める事になり、シェルティはターニャを思い出すから
コリーを飼おうと決めました。
しかし住宅の事情から断念。それならば色違いのわんこをと、紹介でIWASHIMIZU犬舎の門をたたき
譲っていただいたのが2ヶ月のジャムと、7歳のケリーさんでした。
古い友人に『色が変わったペックとターニャだね』と言われ、複雑な思いが込み上げてきました。




ここに、また新たな名前を書き込む日が来てしまいました。


ケリー・・・
写真は、Yumikoさんが下さった、ショーで活躍していた頃の美しいケリーさんです。




7歳で我が家に来てくれて、ジャムのママ役として、またボール遊びの名手として
いつも楽しませてくれたかわいいケリー・・・食いしん坊で、カナブンをキャッチして食べたケリー・・・
あなたのボール遊びは、確実に伝わっているよ。
今度は生まれたときから、私の元に帰ってきてね。
その日を楽しみに、待っているよ。